冨澤氏のコットンの話 その2[コラム 2019 No.13]

コットンの話 その2 冨澤拓也

黒船来航

1857年(安政 5年)に大老井伊直弼が断行した開港によって、外国(主としてイギリスおよび英領インド)から安くて質の良い機械式綿糸が輸入され、従来の手紡糸、手織木綿が圧迫されました。

これは、先進資本主義国によって明治維新当時の日本が植民地となる危機だったと考えられ、この危機を脱して日本を自ら資本主義国として独立させたのは明治政府による工業の奨励と民間資本の熱意による国産紡績工場の設立にあったとされています。

こうした日本の産業革命は衣料生産部門の技術革新から始まって全経済構造の変革に及びました。

ちなみに最初の大規模工場は、1883年(明治 16年)の大阪紡績で、当初から深夜作業を行うため日本ではじめて電灯が採用されました。

1879年にエジソンが電灯を発明してからわずか数年後のことです。

綿紡績は、日本最初の工業であり日本の産業革命は紡績から始まったのでした。

こうして発展途上国である日本は、綿糸の自給を達成することが出来たのです。

しかし原料については、国産綿花の使用を放棄し1884年から中国綿、インド綿の輸入を開始しました。

国内の綿花よりも安価な外国産の綿花を輸入しなければ外国との競争に勝てないとされたためです。

そうして綿花輸入関税の撤廃、日本は農業国から工業立国に踏み切ることになった。

日本の国内で綿の農業は、これを転機に消滅し完全にその姿を消しました。

かつて生産者農民の手に日本経済史上はじめてといってよい利益をもたらしましたが、やがて、かれらに夢を与えた綿業は、資本主義により綿業が完全に圧殺されました。

日本綿業の飛躍のカギ、輸出

日本の綿製品は、朝鮮、満州、中国本土、さらには東南アジア、アフリカへと伸びて行きました。

日本の綿製品輸出が伸びた理由としては、イギリス、アメリカ、ロシア、フランスなどの先進国に比べて低賃金なので価格が安いということと、陸海軍の銃剣と軍艦によって日本帝国の勢力範囲が拡大され、日本綿糸布の独占市場が確立したためとされます。

綿糸布の輸出が拡大したことは、日本の資本主義全体にとって大きな意義がありました。

民間企業にとって侵略による市場拡大は紡績業界の希望となり、日本政府にとって輸出拡大による外貨獲得は軍需工業の希望でした。

これが第二次世界大戦までの日本資本主義発展のコースであり、軍需工業と綿業は日本帝国主義を支える二つの柱だったのです。

しかし第二次世界大戦の敗北によって日本帝国主義は没落します。

敗戦後、1945年、日本にあった原綿はわずかで当時は貿易も許されていませんでした。

戦勝国アメリカ司令部は、綿を日本に供給する申し出を行い、1946年戦後初めてアメリカ綿花が日本に到着しました。

しかし原綿代金の支払いとして、製造した綿布、製品の60%をアメリカへ輸出をすることを条件とされ、輸送もアメリカの貨物船を使用しなければなりませんでした。

アメリカ政府とアメリカ綿花業者にとっては、最大の原綿輸出国を育てようとする意図があったとされます。

戦後 1950年代日本の綿布は輸出高世界第 1位でしたが、国民 1人あたりの綿製品消費では世界 18位でした。

このことから一般の日本人の貧しさが見えます。

ただ別な角度から見ると、低賃金で働く労働力があったことが、綿業を輸出に駆り立て世界一の輸出国にしたとも言えます。

当時は、日本の人件費の安さが国際競争に勝つ強みでしたが、紡績労働者の多くは、「ジョコウ」と呼ばれた十代の少女たちでした。

チープレイバー

午前 4時起床、二交代制による早番の始業は、5時でした。

港に陸揚げされた綿花は俵に固く詰め込まれているうえに砂や種子片、葉などの混ざり物が多く入っています。

それらをほぐし、混ざり物を取り除く、綿のほこりが多く出る不衛生な職場でした。

夏場は湿度80%、温度35度の環境、早番の終業は13時45分で8時間以上の労働でした。

その後、片付けをして食堂で昼食をとり14時過ぎに寄宿舎へ帰る。

帰っては洗濯をし、廊下を拭き、トイレ掃除、風呂当番と毎日、雑多な仕事が彼女らを待っていました。

女子従業員は、全織同盟という労働組合に組織されていましたが、名ばかりで、泊り込みの寄宿舎は雇い主による支配を強めるために好都合なものでした。

賃金は、低く故郷への送金もままならず、生活の自由は奪われているような状態でした。

戦後、原綿を持たない日本綿糸のコストは、8割が原綿の代金であり加工費は、わずかでした。

イギリスは、日本の綿布輸出は、労働の不当安売りであると戦前から非難していました。

日本の賃金水準は、どの産業でも低かったのですが、特に女子従業員で構成される綿業に至っては顕著でした。

綿の歴史から日本の封建的な社会体制から資本主義経済体制への成り立ちを見ることができます。

ヨーロッパの流れ産業革命

木綿は、元来インドが原産で西洋でも18世紀までは輸入品だったので値段も麻や毛よりも高価だったとされています。

当時、ヨーロッパの人々は、木綿がどういうものか分からず、想像で木の枝に羊の子がなっている画が描かれるほど未知の繊維でした。

イギリスの産業革命は、木綿をなんとか安く豊かに供給しようという機運から起こりました。

産業革命の象徴の蒸気機関はまず綿の機械紡績に用いられ、汽船はアメリカの綿花をイギリスに運ぶため、機関車はリヴァプール港に陸揚げされた綿花をマンチェスターに送るために発明されました。

木綿は近代文明の礎を築いたといえます。

ヨーロッパの綿花は、インドから供給されていましたが、それだけでは足りなかったのでアメリカ南部の豊かな土地で、アフリカ人奴隷を使って生産された「白い黄金」すなわち「綿花」の供給が叫ばれ、それはやがてコットンラッシュと呼ばれるようになりました。

アメリカ北部でも紡績は、起こり盛んになるのですが、南部で採れた綿花の大半はヨーロッパに向けて輸出されました。

ヨーロッパに運んだ綿花輸送船は、帰りは、積み荷がなくても十分採算がとれるほどうまみのある貨物でした。

このようにしてヨーロッパへの輸出が盛んになり、そのあおりをうけてアメリカ北部には綿花の供給が十分になされなくなり、北部の不満が蓄積してゆきました。

南北アメリカの争議は、こうして決定的になり、南北戦争勃発の引き金になりました。

リンカーン大統領の奴隷解放の旗印の陰にこのような事情があったのです。

経済発展のためには、大量生産、効率性が最優先され、現在お店で販売されているコットン製品の原料のほとんどには大量の農薬が使用されており、農作物の中で農薬の使用量が最も多いのがコットンという事実があります。

近年は、オーガニックコットンという言葉も聞くことが増えてきましたがシェアとしてはまだ少ないのが現状です。

経済発展が引き起こすさまざまな問題は、時代が変われども常に存在します。

今は、土壌、環境を犠牲にして経済発展をしています。

農薬や枯葉剤の影響はすぐには、表れませんので病気や不具合が出ても本当の理由はわからないのでしょう。

そして人間社会だけでなく自然環境の変化に伴い生態系への影響もあるでしょう。

しかしそれでも「衣食住」の全ては「土」から成ります。

人間を含む全ての生き物は土がないと生きていけません。

だから土を汚してはいけないのです。

とてもシンプルなのです。

世界人口の食品確保を理由とした遺伝子技術の発達、オーガニックという耳障りの良い言葉の乱用、やりたい放題な現状です。

現代といえでも、全ては経済発展のためにとしており、そう、いつか来た道なのです。

コットンは、世界中の産地によって種まきや収穫の時期も違い品種によって繊維の長さ、強さ、えりの程度、色の具合などさまざまな特徴を持っています。

日本古来のコットン「和綿」にも日本の気候にあった特徴があり、そこに生まれ暮らす人たちに似ていると言われています。

そんな和綿の産業自給率は、0%です。

経済発展のために栽培を放棄された在来種です。

大量の情報が交錯する現代生活、心静かにゆっくりと、糸を紡ぐことから見えてくる大切なこともあるのではないでしょうか。

これまでの歴史のように社会は常に変わるものです。

じっくりと自身で考え判断し行動したいものです。

参考文献

「木綿以前の事/柳田国男」「新・木綿以前のこと/永原慶二」「紡績/横井雄一」「論語とそろばん/渋沢栄一」「綿と木綿の歴史/武部善人」「ワタの絵本/農山漁村文化協会」