運・不運                                               

 

人生には、どうしても運不運は付きまといます。

運という字は、将軍が兵車に乗って旗を振り全軍を率いて行く形で、勝敗の行方を示しています。

四方を海に囲まれた海洋国家の日本は、海を往く「船」には特別な思いがあるように思います。大海原に漕ぎ出す高揚感や富への期待や異国へのあこがれなどが入り混じって、思わず見入ってしまいます。
横浜港の氷川丸、東京臨海副都心の宗谷そして夢の島にある第五福竜丸を訪ねてきました。

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横浜の山下公園のシンボルとなった氷川丸は運の良い船でした。1930年・昭和5年から就航し30年間働きました。
アメリカとの交易が盛んになって北太平洋航路の花形貨物船として活躍を始め、11年間に太平洋を146回も往復しました。
1941年・昭和16年に第二次世界大戦が始まり、海軍の病院船として南太平洋の島々で戦い傷ついた兵士の救命のために働きました。               船体を白くして大きな赤十字のマークを付けました。兵士たちは、「白鳥」という愛称で親しんでいました。

・1943年10月に、インドネシアのスラバヤ港外で機雷の爆発があり、船尾に損傷を受けました。

・1944年7月には、カロリン諸島のメレヨン島で傷病兵を保護し、出航直後に近くで機雷2発が爆発しましたが、軽傷で済みました。

・1945年2月には、ベトナム・サンジャックからシンガポールへの航行中に船尾に機雷が触れて損傷がありました。

いずれもすんでの幸運で助かりました。
太平洋の危険な水域を往って3万人以上の傷病兵を運びました。その間、浅間丸、龍田丸、鎌倉丸、平安丸、日枝丸などみな、撃沈され太平洋の海底深くに沈んでしまいました。

大型客貨船で生き残ったのは氷川丸だけでした。

戦争が終わると、引き上げ船として南太平洋まで航行し、28,000人の傷ついた兵士を日本に運びました。

1952年アメリカの占領が解けると再び横浜・シアトル・バンクーバー間の航海を続け、1960年に引退し山下公園に係留され、今も当時の雄姿を留めています。重要文化財に指定され、名実ともに幸運に恵まれました。
操舵室の神棚には、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社のお札が安置されていました。

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新橋からモノレールのゆりかもめに乗って船の科学館駅で降りると、科学館の建物の向こう側にオレンジ色の「宗谷」があります。
宗谷は、1938年・昭和13年に砕氷型貨物船として進水しました。ソ連からの注文で建造されましたがうまく交渉が成り立たず、結局海軍が測量船として使うことになりました。主に千島列島や樺太方面の地図や海図の作成のための測量を行いました。第二次世界大戦が始まるとサイパンなど南太平洋の海図作成のための測量作業に従事しました。
敵の偵察機は測量を妨害するために盛んに爆弾を投下してゆきましたが、損傷はありませんでした。

1944年・昭和19年、軍司令部のあったトラック島に米軍機450機による空襲がありました。その時、停泊していた宗谷は逃げましたが、座礁し身動きが出来なくなりました。他の艦船50隻はみな撃沈されましたが、宗谷は潮が満ちて自然に離礁して海にぽつんと浮かんでいました。乗組員たちは大喜びで宗谷に戻り、艦内を調べてみるとほとんど損傷がなく、その奇跡に感動して涙を流しました。
宗谷は「不沈船」と呼ばれるようになりました。艦内に祀られていた宗谷神社のお蔭と評判になりました。
終戦後は、南太平洋の島々に残された兵士や民間人700万人の引き揚げのため132隻の艦船が各地に向かいました。その中に宗谷の姿もありました。
日本近海は、米軍の機雷が沢山敷設されていて、大変危険でした。南洋から帰り、日本の島影を見ながら機雷に触れて沈没した船がいくつもありました。機雷の撤去に7年も掛かるほど沢山の機雷がありました。

宗谷は、グアム、トラック島、上海、台湾、ベトナム樺太、北朝鮮から3年間に19,000人の引揚げに貢献しています。
1955年・昭和30年には南極観測船としての航行が始まり、第一次南極観測から第6次まで見事に勤めを果たしました。
第一次の時には、硬い氷原に15日間も閉じ込められました。アメリカに救助を求めましたが、結局ソ連の砕氷船オビ号に救助されています。宗谷の本来の発注先のソ連が助けたとは、不思議な因縁でした。

船齢26年となり南極観測船としての役割を終えました。その後は、流氷に閉じ込められた漁船を救助するための巡視船として働きました。
1970年・昭和45年択捉島近辺で操業していた漁船19隻が流氷群に閉ざされました。その内7隻が脱出できず2隻が転覆しました。5隻の乗組員は船を出て流氷を伝って島に逃げました。
84人の生存者は、救助の船が来るのかどうか不安の中、厚い氷をバリバリと蹴散らしながら向かってくる宗谷の姿を見て飛び上がって喜び合いました。
16年間で救助した船は125隻、1,000人もの人命を守りました。

1978年・昭和53年に船齢40歳になりスクラップになる予定でしたが、永久保存したいという全国からの声が大きく、現在の船の科学館で見学者を待っています。
これ程の活躍をした船にしては、船体はさほど大きくなく拍子抜けした感じですが、手で触れてよく見ると、成るほど造りの頑丈さに納得しました。
海の守り神と貴ばれた所以です。

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東京、江東区の夢の島公園の一角に第五福龍丸の展示館があります。
第5福龍丸は、1947年・昭和22年、和歌山県で木造カツオ漁船として建造されました。
終戦後の食糧難の時代に木造船で遠洋漁業を行った例としても貴重な存在です。

1954年・昭和29年に、この船は静岡県焼津港の遠洋マグロ延縄漁船としてマーシャル諸島で操業している時に、運悪くビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくしてしまいました。

この船は、出発の時から不運で、一旦出航したもののエンジンの不調で帰港して修理し、再び漁場を目指しましたが、進路を間違えたり、大事な延縄(はえなわ)を海中に落とすという不運に見舞われました。結局マグロ165尾の漁しかありませんでした。

そして3月1日水爆の放射能の死の灰を浴びてしまいました。
広島の原爆の1000倍の規模の水爆で、爆心地から160km離れていましたが、乗組員23人全員被ばくしました。アメリカは1946年から1958年12年間に67回もの水爆実験を行いました。
この時日本では雨が降り京都では8万カウンターという高濃度の放射線が観測されました。船団が持ち帰った被ばくマグロ457トンは、築地市場の地下深くに埋められました。

第五福竜丸は、放射能が減衰してきた後、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として利用され、1967年・昭和42年に廃船・解体されることになりました。ところが原水爆禁止運動の一環として保存することが決まり、現在の展示館に収まりました。展示館の外では楽しそうにしていた来場者も中に入り、第五福竜丸の姿を前にすると黙り込んで、真剣なまなざしで船体を見上げます。それ程重いテーマです。

この世の中には、人知を超えた運・不運ということがあるようです。しかし事前にそれを知ることは出来ないとなれば、いつでも前向きに明るく進んでゆくしかないと思います。結果は後からついてくるとキッパリと心を決めるしかありません。

文責:日本オーガニックコットン流通機構 顧問 宮㟢 道男
2017/11/1