コットンが好きで 好きで・・・

東京コットンビレッジの冨澤拓也さんはコットンに魅了されて和綿の普及の仕事に携わって、
今年でもう10年になります。
東京世田谷の用賀に糸紡ぎのできるスナック店を経営されている時期もありました。
コーヒーやビールを飲みながら糸紡ぎの体験できるという世界にも珍しい試みでした。   
現在もコットンに親しむイベント活動をされています。

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この度、特に寄稿頂きましたので是非コットンの奥深さを味わってみてください。

冨澤さんが日本の綿の歴史を愛情深く語ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コットンの話 その1                                    冨澤拓也

木綿・きわた(コットン)の伝来     

799年(平安時代)小舟に乗った崑崙コンロン人が三河(愛知県)に漂着し、その際に木綿の種を持っていた、というのが日本に初めて木綿が伝えられた最も古い記述とされています。
*崑崙 コンロン人ではなく天竺 テンジク人(インド人)

という説もある。しかしなぜ小舟で漂着したのか、なぜ木綿の種を持っていたのか、本来の目的は布教だったのでは等、諸説あります。木綿は紀伊・淡路・四国・九州諸国に植えられたのが栽培の始まりとされており、その植生から比較的温暖な地帯を中心に栽培されました。しかしこの時の栽培はうまくいかず、まもなく衰退、絶滅したとの記述が残っています。

隣国朝鮮では14 世紀に元(中国)から綿種子を輸入したのが綿作の始まりとされ、まもなく綿布等は日本に輸出されました。日本人にとって綿布はそれまで着用してきた麻・からむし・葛・桑などに比べ比較にならないほど暖かく丈夫で肌触りが良かったので貴重品・珍品として扱われました。

当時の日本は綿布との引き換えに金銀銅などを差し出すほど木綿の魅力に強く惹きつけられていきました。

日本からの買付けが余りに激しくなったため朝鮮側が抑制し始めると日本の商人は中国の木綿を買い付けようとしました。しかし明帝国(中国)の海禁政策により密貿易以外に木綿の輸入は困難でした。こうして外国木綿への依存の道が破綻するようになる応仁の乱前後の頃から日本国内でも木綿が作られ始めました。

 

安定した栽培の始まりは 16 世紀とされ外国から多量の種子を輸入し、大和・河内・山城・摂津・和泉(五畿内)などでの栽培が始まりました。以後九州諸国や東海・関東諸国等寒冷地を除き全国的に広がっていきました。

 

自給から産業へ

 

木綿の栽培が盛んになると同時に木綿織り等の発展もめざましく、各地で競ってすばらしい織りが工夫され、製品は外国の模倣なども含め驚異的な発展をしました。また、羽後(秋田県)など綿作の不適な寒冷地でも暖地から問屋を経て木綿を仕入れ、初歩的な流通経済の始まりでした。こうして木綿は江戸時代中頃には国民の着物として普及しました。

綿花は、隠岐(島根)、佐渡(新潟)、陸前(宮城・岩手)、陸奥(青森・岩手)、羽後(秋田)等寒冷地以外の全国で栽培され、農家の副業として広がり、自家使用、地域消費を超えて、江戸や大阪で売られるようになりました。

江戸時代後期には自給の枠を超え、木綿は商品として扱われ発展し、その動きは各地に広まりました。その結果、木綿の生み出す利潤を巡っては激しい争いがくりひろげられました。

幕府は買い占める特権を強化するなどして利潤を吸い上げようとしましたが、生産者農民はこうした抑圧に対し激しく抵抗、幕府の独占に反対し各地との自由取引などを 要求、空前規模の「国訴」を行い、幕府の譲歩を勝ち取りました。

こうして農民及び各諸藩は需要地との直接取引を行い、藩経済の自立の道を追求し始めました。この動きは長州藩などではいっそう明確となり、やがて藩の幕府からの自立という政治の動きにまで展開し、それが維新への道を切り開くことにも繋がっていくことになったとされます。

こうして木綿は「庶民衣料」というもっとも日常的な存在に関わらず、江戸時代の経済、さらには政治において、とても重要な役割を果たしてきました。しかし、それも明治維新を経て結果、決定的な大打撃を受けることになります。