マンチェスターとリバプール
石炭のかけらと煙突の煙、ここが私のふるさと。どこの街にもある騒がしさは、うんざりするけれど、街のみんなはそれでも幸せになりたくて生きている。
旅から帰ると工場の高い煙突が、真っ先に「お帰り!」とほほ笑んでくれる。
(歌詞の一部を意訳)
1968年、ピンキーとフェラスが世界的な大ヒットをさせたポップスの曲です。
イギリスの地図を見ると中程のくびれた西側の海岸にリバプールがあって、それから東へ50キロほど内陸にあがったところにマンチェスターがあります。
マンチェスターは、18世紀の産業革命の中心地で、一大綿工業の大都市になりました。
1830年には、リバプールとの間に鉄道が敷かれ、大量の綿製品がこのリバプールの貿易港から世界中に運ばれてゆきました。
リバプールを繁栄させたものは塩、タバコ、砂糖にラム酒、綿花に綿織物、そしてアフリカの労働力、奴隷たちでした。
多少の後ろめたさがあったのでしょうか、奴隷は「黒い貨物」、綿花や砂糖は「白い貨物」とわざわざ言い換えられていました。
アフリカの西海岸に向けて、この港を出た貨物船には、綿織物、毛織物、銅製の食器など日用品が積まれていました。
アフリカに着くとそれらを30倍ものもうけで売って、奴隷やガラスの装身具などを買い込み、それらを積んで新大陸の南北アメリカに向かいました。
アメリカに着くと奴隷と積荷を現金に換えて今度は、サトウキビ、タバコの葉、綿花を仕入れて満載し、リバプールに戻って行きました。
これが「三角貿易」です。
綿花取引所の様子
1872年にニューヨークに綿花取引所が出来ると続いて1882年には、リバプールにも綿花取引所ができ、世界の綿花相場を支配しました。
リバプールといえばビートルズ発祥の街で、音楽の世界にヒットを巻き起こすきっかけとなった有名な「キャバーンクラブ」もこの街にあります。
ビートルズのメンバーのポール・マッカ―トニーの父親のジムさんは、綿花のセールスマンでこの街でさぞかし忙しく働いていたことでしょう。
アメリカ南部の綿産地から大量のコットンがミシシッピー川を下り、ニューオリンズの港から出荷されてゆきました。
綿花栽培の中心地メンフィスからニューオリンズにかけて、そこで働くアフリカの人々は、ゴスペル、ブルース、リズム&ブルース、デキシーランドジャズへと発展させてゆきました。
メンフィスは、いわずと知れた伝説のロックンローラー、エルビス・プレスリーの生まれ故郷です。
プレスリーは、綿花畑で働く母親の背中で育ちました。
もう一つの巨星、ソウルミュージックのジェームズ・ブラウンは、綿花畑で働き「綿摘みはつらいの一言に尽きる」と回想していたそうです。
1920年代、禁酒法を逆手にとって大もうけしたギャング、オウニー・マトゥンはニューヨークのハーレム地区に白人向けの高級ナイトクラブをオープンさせました。
デュークエリントン、ルイアームストロングなど一流のジャズ演奏家が大挙して出演し、さながらジャズの「メッカ」となりました。
出演者はすべて黒人で、そのクラブの名前は、なんと「コットンクラブ」でした。
コットンと黒人奴隷の存在は、このように切っても切れないつながりを持っていました。
コットンをめぐる音楽は、支配された極貧の人々の苦境を慰める鎮静剤の役割をしていたようです。
日本オーガニックコットン流通機構 理事長 宮嵜 道男