2013年、田中正造没後100年
JR駒込駅を降りて、北に7分程歩くと左に庭園が見えて、やがて立派な西洋館の門の前に出ます。
バラの花が素晴らしい旧古河庭園です。
古河市兵衛が1875年に栃木県日光市足尾に鉱山経営を始め、1883年には日本最大の銅鉱山に成長させました。1903年に市兵衛が亡くなり、明治政府の大臣・陸奥宗光の二男を養子に迎え二代目当主に据えました。この時、陸奥の屋敷跡を古河家が譲り受け、新たに建設したのが旧古河邸です。鹿鳴館やニコライ堂などの建築設計を一手に請け負っていたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計して、当時の大工や左官、庭師が日本の職人の意地を掛けて、贅を尽くして建造されました。
どことなく職人の気骨が残る和風な西洋建築で微笑ましささえ感じます。
1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦という銅の需要が急増する二つの戦争を経て古川財閥が形成されました。現在は古河グループとして、古河機械金属、富士電機、富士通、みずほ銀行など錚々たる企業グループになっています。その古河家の事業、銅鉱山経営は、日本で最初の公害事件を起こしました。
足尾銅山鉱毒事件です。
この公害に敢然と立ち向かったのが栃木県議から衆院議員になった田中正造です。
国会で鉱毒により苦しむ農民たちのために、命掛けの抗議運動を展開させました。農相事大臣の陸奥宗光には、国として正規の毒性検査をするように迫りましたが、古河鉱業との親密な関係があり、これを握り潰しました。
山縣有朋首相は、田中の質問に対して「意味が分からない」ととぼけた答弁で拒否しました。この山縣も古河と同じように広大な庭園を持つ文京区目白に私邸を求め椿山荘と名付けています。
この頃の政治家、事業家は権力、財力を得ることに何の躊躇もなかったようです。
さて、1901年に、田中正造は、議員を辞め、明治天皇に直訴しました。「直訴」は、命を懸けたもので、遺言状、妻との離縁状も残していました。結果的には警官に取り押さえられて、直訴は失敗しましたが、号外新聞が出るほど日本中を驚かせ、注目が集まり、政府も流石に何か対策を打たざるを得ませんでした。
ところがなんと、報復でしょうか、田中正造の生まれ育った栃木県谷中村に、鉱毒沈殿用の遊水地をつくって水で問題を薄めることに決めたのです。多くの農民は立ち退かされ、谷中村はとうとう廃村させられてしまいました。
これが現在の渡良瀬遊水地です。
政官財の癒着した政府というものは、ここまで横暴になれるものなのです。
1980年台まで銅鉱山は続きました。その後水質は改善して、川の水の銅の含有量が減ってゆき、現在は水鳥が生息する重要な湿地帯としてラムサール条約の指定を受けています。
一人の政治家の奮闘が大きく時代を動かした稀な例でした。
さあ、時は平成25年安倍政権。福島原発問題が膠着状態で、解決に向けて一歩も前進していないのに、政官財とマスコミを抱え込み、選挙に大勝するという決定的な後ろ盾を得て、再稼働、原発輸出を声高に唱えています。
田中正造に繋がる気骨の政治家の出現を望みたいところですが、果たしてどうでしょうか?
エコロジーにつながる田中正造の言葉です。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
平成25年8月26日
日本オーガニックコットン流通機構
宮嵜道男