化学肥料はパンドラの箱
農薬取締法では、殺虫剤や除草剤などを「農薬」と規定し化学肥料は、含まないとしています。
英語には、農薬に相当する言葉はなく、対訳として「農業用化学物質/agricultural chemicals」としています。
一般に化学肥料は、農薬と異なり危険は、ないというイメージがありますが、それは、化学合成薬剤そのもので地球環境に弊害があります。
植物に必要な三大栄養素と言えば、語呂がいいので簡単に覚えられる「窒素,リン酸、カリウム」です。
化学肥料は、合成される窒素肥料、鉱石から作られるリン酸肥料、カリウム肥料。
これらを条件に合わせて配合して農地にまかれます。
窒素肥料が最も多く使われています。
窒素は植物のアミノ酸の構成要素で、アミノ酸は、たんぱく質の素です。
たんぱく質は別名「含窒素有機化合物」と呼ばれるように植物の葉も茎も花も実も全て窒素が素です。
リン酸は生体内の反応を活性化させます。
遺伝子の構成要素でもあります。
リンは、このように「活性剤」ですから、家庭用洗剤のリンの排水が、河川の植物の富栄養化を招き、湖沼のアオコ、海洋の赤潮などの原因の一つになっています。
このため「無リン洗剤」とうたってエコをアピールする製品が多くなってきています。
カリウムは光合成の促進、でんぷんの合成など、全体のバランスを保つ「調整剤」の役目を持っています。
問題は過剰な窒素
さあここで有機野菜と一般野菜の違いを見て行きます。
問題は窒素です。
前述のように、窒素は、植物の体そのものを作る素ですから、窒素が多ければ多いほど大きく育つ、たくさん実がなるということになっています。
そこで農業者は、少しでも収量を増やして収入を増やしたいと考えます。
かくして窒素肥料が多量に使われ、土壌から窒素が過剰の作物が出来てきます。
植物に肥料として鶏フンなど有機肥料を土に入れたとします。
植物は、すぐに鶏フンの栄養素を取り込むことができません。
土壌中の微生物が、時間をかけて鶏フンを分解して「硝酸態窒素」という取り込みやすい形にしてはじめて体内に入れ、たんぱく質を合成して根、茎、葉、花、実になってゆきます。
この点、化学肥料は微生物の手を借りず、すぐに吸収されるように作られていますので、即効的に成長が現れます。
硝酸態窒素が過剰にあると植物中にも土壌中にも吸収されず、そのままの状態で残ってしまいます。
すると土壌は、硝酸によって酸化され、微生物にとって住みにくい環境となり荒れた農地になってしまいす。
また、土壌中に残った過剰の硝酸態窒素は、にじみ出して、地下水を汚染し、川、湖、沼の富栄養化汚染につながって行きます。
また酸化窒素は、酸性雨として農地だけでなく森林を傷めます。
そして亜酸化窒素は強力な地球温暖化ガスで、温室効果は二酸化炭素のなんと200倍も強力です。
さらに生物を紫外線から守っているオゾン層を壊す作用もあります。
この200年で亜酸化窒素の濃度は13%も増えているという報告があります。
そして、その増加の原因の70%は窒素肥料ということです。
ヒトが硝酸態窒素を過剰に含んだ野菜を食べるとどうなるのか?
体内で還元されて「亜硝酸態窒素」に変化します。
亜硝酸態窒素は、血液中で酸素を運ぶヘモグロビンと結びつきやすく、酸素を運ぶ機能を阻害する結果となり、体内の細胞は酸素欠乏の状態となってしまいます。
細胞が酸素を十分に取り込めないと、細胞は元気をなくします。
元気をなくすと免疫系、循環器系、内分泌系のあらゆる機能に支障をきたします。
ひどい場合は、亜硝酸ナトリウムからニトロソアミンという発がん物質を合成する危険性もあります。
世界保健機関(WHO)では、ニトロソアミンの安全基準を設け、体重1kgあたり3.5mgとして注意を呼びかけています。
特に乳幼児の場合は深刻で「メトヘモグロビン血症」の原因となっています。
乳幼児は胃の酸度が低く、特に酸素欠乏を起しやすい体質にあります。
体中に酸素が行き渡らず青ざめることからブルー・ベビー、青い赤ちゃん症候群(メトヘモグロビン血症)と呼ばれています。
1945年にアメリカのアイオワ州で初めて診断されてから、欧米諸国で今までに2,000例以上の発症報告があります。
また、ヨーロッパの牧場で牛がメトヘモグロビン血症で次々と死亡することもあり話題になりました。
ヨーロッパでオーガニックマーケットが急速に広がった背景の一つになりました。
作物に窒素肥料が過剰に与えられると、植物はどんどん体内に蓄えます。
窒素がアミノ酸を合成して葉や茎にたまります。
するとアブラムシなど害虫はこのアミノ酸を食べに集まってきます。
結果として防虫のため殺虫剤を散布するという「いたちごっこの悪循環」が始まります。
有機肥料も硝酸態窒素を生成しますが、生成の速度が、化学肥料の3日に比べて30年と長く汚染には至りません。
有機肥料は、土壌に対しても、作物に対しても、食べる人の健康にも有利であることが分かります。
オーガニック農産物はこのように意義のあるものなのです。
空気からパンを取り出す夢/大気中の窒素を取り出す技術
ドイツの「農芸化学の父」と呼ばれた化学者ユストゥス・リービッヒは、植物の栄養素が、窒素・リン酸・カリウムの「無機物」であることを初めて発表しました。
1840年にはその集大成『有機化学の農業および生理学への応用』(Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf der Agrikultur und Physiologie) を出版し、称賛を得て1845年には男爵に列せられ、以後フォン・リービッヒを名乗るようになりました。
リービッヒは、堆肥や微生物の働きで農産物が生育する原理を発見したとして、人工的な進んだ近代農業への転換を提唱しました。
近代科学とは大自然つまり神の仕組みを解明して、人工的に制御・管理・支配することを真骨頂にしています。
当時、窒素肥料の原料は、硝石(硝酸カリウム)やチリ硝石(硝酸ナトリウム)でヨーロッパ諸国は、食料を増産する要請から世界に散り、争奪戦を始めました。
南米チリ北部の海沿いのとるに足らない小さなイキケの街は、チリ硝石の産地となってからはまるでゴールドラッシュのようなにぎわいを見せました。
チリの言葉でイキケは「うそつき」という意味で、不吉な未来を暗示していました。
イキケの海では、硝石の争奪をめぐってイギリス、フランスなどによる海戦まで起こりました。
1900年代・20世紀という世紀は、先進諸国による未曽有の「奪い合いの世紀」で資源も知識も技術もヒトの生命さえも奪い合う、エゴをむき出しの絶頂期でした。
1898年、イギリスの化学者であり物理学者、大英帝国科学学会会長でサーの称号を持ち「知の権威」の中心にいた66歳のサー・ウィリアム・クルックスによる有名な演説がありました。
「窒素から導かれるアンモニア、硝酸は爆薬,染料、医薬を作る素である。
特に肥料の原料であり、イギリスを始めすべての文明国は現在、食糧危機に直面しており、さらに人口が増加しているにもかかわらず農地は限られている。
この暗い現実に一条の光がある。
大気中の窒素の固定である。
これこそ科学者の才能が、取り組むべき偉大にして緊急の課題である」
この荒唐無稽、錬金術と見間違えるような演説に身を震わせたのは、硝石の争奪戦に乗り遅れ、ひたすら買い込む不利な立場にいたドイツの科学者達でした。
「必要は発明の母」です。
とうとうドイツの科学者フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュが、現代の錬金術を成し遂げました。
ハーバーは、熱と圧力をかけてアンモニア液をフラスコにタラタラと落とす事に成功したのです。
そしてドイツの化学会社BASFに持ち込みました。
そして若き技術者だったボッシュはその原理を使って、工場生産の仕組みを造り上げました。
大気の成分は、78%が窒素で、酸素は20%、0.9%がアルゴン、二酸化炭素は0.04%です。
自然界には、大気中の窒素が植物に取り込まれる仕組みが2つあります。
一つは、微生物です。
エンドウ豆やアルファルファ(うまこやし)などの豆科の植物の根につく微生物の根粒菌が盛んに窒素を取り込み、植物のたんぱく質の素となっています。
これを「窒素固定」と呼びます。
もう一つは、雷の稲妻です。
昔から「秋の稲妻は千石増す」とか「雷の落ちた木には、きのこがよく育つ」と言い伝えられてきました。
雷の放電で固定された窒素分は雨に溶けて地表の植物の栄養となっています。
雷を「夫」とし稲を「妻」として結実するのが「米」という連想から「稲妻」「稲光」と呼ぶようになったのでしょう。
「土壌微生物生態学」の資料には地球規模の窒素固定の推計値が表わされています。
それによると年間約2億トンは微生物が、500万トンは稲妻とあります。
そしてなんと人工的に固定しているのは8,000万トンにも上るとしています。
30%弱の窒素が大気から搾り取り出されていて、過剰分が地球上に拡散されている事実は、二酸化炭素の問題以上に深刻に考えなければなりません。
ハーバーは、ノーベル賞を受賞し大きな富と栄誉を得ました。
その後、海水中の金を取り出すという正に錬金術のような無邪気な研究に没頭するまでは、よかったのですが、折りしも、時代は第一次世界大戦の中にありました。
窒素は化学肥料の原料としての目的だけだったらこれほど早く成功しなかった、もう一つの目的に爆弾という差し迫った必要があったからだともいわれています。
ハーバーはトリニトロ・トルエンTNT爆弾を作りました。
またナチスドイツの要請を請けて殺虫剤から転用した殺人毒ガスの開発に手を染めて行きました。
ユダヤ人強制収容所の毒ガスは、ハーバーの研究によって作られました。
一方、ボッシュもノーベル賞を得て、潤沢な資金を背景に縦横な研究活動をしました。
第一次、第二次世界大戦の最中、ドイツの弱点は慢性的なガソリンの不足でしたが、このボッシュが石炭から合成ガソリンを作り上げ、戦車や戦闘機を動かしました。
ハーバーとボッシュの技術がなければ、ヒットラーの異常な過熱ぶりは、単なる空元気で終わっていたのです。
1750年というとアメリカ独立戦争やフランス革命が起きる少し前、バッハやモーツアルトが活躍した時代、日本では江戸幕府の時代、世界の人口は7億人でした。
産業革命があって100年後、1850年には人口は12億6千人に増えました。
20世紀のはじめ頃は16億人、そして2010年の昨年は、爆発的増加で67億人となりました。
この急増を支えているのは、ハーバーとボッシュの化学肥料と言っても過言ではありません。
農作物がなければ過剰な人口増加はありません。
過度な人口増加は貧困を生み、児童労働が横行し、たくさんの悲劇を築きあげて行きます。
さらに生命をつなぐはずの農産物は、ついに貪欲を燃料として燃える金融商品と成り果て、何万人もの餓死者から目を背け、非情な金融・駆け引きの材料にしているのが昨今の事です。
ギリシャ神話の中でゼウスの神が、怒りにまかせて地上に送ったあらゆる災いの入ったパンドラの箱は、人間の英知で閉じたままであるべきでした。
ところが、残念ながらそのフタは開けられてしまいました。
人類には、災いの芽を一つ一つ、摘んでゆくという新たな試練が与えられました。
オーガニックなセンスで世界を見直すことが、問われているということです。
日本オーガニックコットン流通機構 理事長 宮嵜 道男