大久保さんを偲んで・・・
大久保さんの思い出
NOCの理事・大久保忠男さんが、3月2日に69歳で永眠されました。
この2月に体調に異変がおき、それから3週間後の突然のことでした。
この春からの新しい企画も準備されて、さぞかし悔しい思いで発たれたように思います。
「オーガニックコットン物語」(コモンズ)の本の43ページに、1枚のファックスがきっかけで
私が、オーガニックコットンビジネスをアメリカから持ち帰ったというくだりがあります。
このファックスの送り主は、他でもない大久保さんでした。
大久保さんは、森永乳業(株)、りそな総合研究所(株)、コンビ(株)、(株)東京富士カラー、パナソニック(株)、イオン(株)、伊藤忠商事(株)、(株)NTTドコモなど100社以上の企業と共同企画やコンサルテーションを行ってきました。
大久保さんの関心は、ひとたび、家庭に赤ちゃんが生まれると消費志向がガラッと変わるベビー市場の面白さでした。この分野を集中的に研究し、1992年に株式会社赤ちゃんファミリー市場研究所を設立し、ベビー分野の第一人者として、専門的なコンサルタント業を展開されました。
1992年頃、クライアントのベビー服のメーカーから、アメリカにオーガニックコットンというエコがテーマの綿花があるので調べて欲しいという話があって、当時ロサンゼルスに住んでいた私に相談してきたのでした。アメリカの有機農業やエコ市場の調査をし、アメリカの紡績会社との独占販売契約まで漕ぎ着けて、日本に向けてオーガニックコットンの紡績糸や布地の輸出を始めました。
オーガニックコットンビジネスの船出です。
1993年には、私も帰国してオーガニックコットンの普及活動を始めました。
大久保さんは、まず普及の組織を作ろうと言われ、まずは名称を検討しました。
当初、日本オーガニックコットン協会が有力な候補になりましたが、大久保さんは、
「もっと原料が、商品が、行き交うダイナミックな「流通」という言葉を入れたいと提案され
「日本オーガニックコットン流通機構」に決まりました。
繊維業界に新しいエシカルのテーマを持ったオーガニックコットン製品を流通させてゆくためには、どうすれば良いかの構想を立てました。まずは、NOCの存在意義、役割を明確にしました。
一つは、ブランディング政策です。ファッションの市場を見てみると、このブランドイメージがとても重要視されています。NOCの製品は、環境にも健康にもフェアトレードにも配慮されたエシカルブランドとして確立させること。それからその裏付けとして認定の仕組みを作り、ブランドの信頼性を確立させることとしました。
大久保さんは、メンバーが共通に使えるブランド名が必要だろうといち早く「オーガニック
ライフ」の商標登録を自費で取得してその後、NOCに譲ってくれました。
NOCメンバー各社が、この共通ブランド名を使って各社の商品をマーケティングしてゆけば、小規模なメーカーの集まりでも大きな塊として市場に見せてゆけるメリットを構想しました。
NOCの事業は、このように大久保さんの計らいで始まりました。
大久保さんは、昭和22年9月8日に、兵庫県明石市で生まれ, 幼少の頃から読書好きで、中学生の頃には、ドストエフスキーなどの難解な小説を楽しむ気風がありました。
1980年代、日本経済は沸騰に向けて熱を帯びていました。一方、若いビジネスマンたちは脱会社人間という個々人の能力を高め、人脈を広げたいという意欲を持ち始めました。
自分の会社の仲間たちとの親交だけでは飽き足らず、分野の違うビジネスマンたちと交流して視野を広げたいという気運が湧き上がった時代で、「異業種交流」という言葉が流行りました。大久保さんは、その頃のリーダーでした。
主に欧米の新しいビジネス戦略や持つべきスキルなどを紹介しながら、どう自分の仕事の能力を高めてゆくかの交流会、勉強会をいくつか主宰されました。
大久保さんの集まりは人気で、毎回知的な興奮に包まれました。
欧米の最新の情報ばかりでなく、日本の文化や風土への敬意を強く持っていて、日本の厚い歴史が育んだ人としての心得などもしばしば話題に取り上げました。
私は、そんな時、大久保さんを、幕末の志士吉田松陰の印象と重ねて見ていました。
勉強会では難しいテーマを議論して、興奮した知恵熱状態は、その後に必ず準備されている飲み会でリラックスさせてくれました。
いつでもこの硬軟がうまくセットされていました。大いに飲み、語るひと時の楽しさを提供してくれました。
常に、相手を傷つけないように、緊張させないように大久保さん独特の優しい語り口と笑顔がありました。
二度とあの優しいスマイルに接することができないんだと思うと、本当に寂しく思います。
大久保さんのご冥福を心からお祈りします。
左:筆者 右:在りし日の大久保さん
平成29年3月16日
宮嵜道男