タージマハルとコットン[コラム 2021 No.03]

アーゴラの街にほど近く、曲がりくねったヤムナー川のほとりの高台に壮麗なタージマハルが聳えています。
皇帝が亡くした妻を偲んで万感の思いで建てた霊廟です。
途轍もない建設資金の元に綿花、綿布があったとなればその始終を知りたくもなります。


13世紀、ジンギスカンが興したモンゴル帝国は、西はトルコ、東は朝鮮半島まで一大勢力を膨張させました。
鎌倉時代の「元寇」の顛末もその膨張の先端で起きたチョッとしたいざこざでした。
日本は天も味方したようで、何とか支配を免れたのですが、当時のインドでは防ぎきれず、勢力は北から野火が拡がるように全土に及び、「モンゴル人のもの」という意味の「ムガール帝国」の時代が16世紀から19世紀までなんと300年間にも及びました。
元々ヒンズー教を信じていたインドの人々は、ムガールの宗教イスラムを強要されて、さぞや戸惑ったことでしょう。

ムガール帝国の第5代目の皇帝シャー・ジャハーンは、政治的手腕に長け、勢力 拡大のための戦にも果敢に挑み、最も繁栄した時代に君臨しました。
この時の財政の稼ぎ頭は、綿花でした。
 
インドには古来綿花の栽培や綿織物の豊かな歴史があり、当時中東の商人を通じてヨーロッパに綿がもたらされ、人々は綿の柔らかさや肌触りの良さに気付き、夢中で輸入したようです。麻布や羊毛の布地と比べたら、滑らかさは雲泥の差で、肌着としてはシルク以上の着心地の良さがあって、取り合いの騒ぎがあったようです。

18世になると、イギリス、オランダが東インド会社を作り、綿花の取引を一手に行い、そして綿の紡績を蒸気機関で機械化して大量生産するという「産業革命」に繋がっていきました。

さて、そのジャハーンの治世、潤沢な財政を背景に、あのタージマハールが建設されました。
この建物は、皇帝ジャハーンの愛妃ムスターズ・マハルの霊廟で、お金に糸目をつけず、1632年から22年もの歳月を掛けて完成されました。
愛妃マハルは、ジャハーンの寵愛を一身に受け、13人もの子をもうけ、14人目の出産の後、急逝してしまいました。36歳という若さでした。
皇帝は、マハルを片時も側から離したがらず、この時も遠征の戦に連れて出て戦地での出産でした。無理が祟った結果の不幸だったようです。
皇帝は、悲嘆に暮れ、39歳の若さで自慢の黒髪が真っ白に変ったと云われています。

マハルの「華麗な墓を」という遺言を胸に抱いて、王はこの世で最も美しい建物を目指して建設が進められました。
北のジャイプールから大理石を1000頭もの象を使って運ばせたといい、翡翠や水晶やトルコ石、ラピスラズリーなど宝石を近隣諸国から買い集め、アラベスク紋様に嵌め込み建物を飾りました。
様式は、イスラムの伝統に従ってシンメトリー、左右対称を厳格に守っています。
偶像崇拝の禁を守り、祀られる愛妃マハルの絵や象を探しても見つかる筈もなく、内部はガランとした空間が広がっています。

2012年に当NOCでbioReプロジェクト視察ツアーを行い、帰途にタージマハールを訪れて、ツアー参加者共々この世界遺産の建物の壮大さと壮麗さに圧倒されたものでした。

インドを旅すると、名所や旧跡、逸話の中に、多く綿花との関連を見出すことができます。それ程までに、インドと綿花は切っても切れない厚い歴史があることを知らされます。
このインドの地で栽培されたオーガニックコットンがNOCグループの製品の主な原料であることを今一度、認識しました。

2021年2月10日
日本オーガニックコットン流通機構
オーガニックコットンアドバイザー 宮嵜 道男

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