ショウ・ザ・フラッグ[コラム 2021 No.10]

ショウ・ザ・フラッグ・ブーツ・オン・ザ・ロード

この言葉を聴くと、日本の中高年男子は、胸の中にモヤモヤ感が湧くのではないでしょうか。
戦後一貫して平和憲法の下、平和教育されてきて、他国と戦わないことを美徳と思うようにしつけられてきて、その上で、自衛隊という機能はしっかりと整備して、防衛のためだけに使うものだという認識を取りあえず受け入れてきました。
取りあえずと書いたのは、男子と生まれたからには、いざとなったら命を賭しても戦うという古来から刻み込まれた何かとの折り合いが付かないからです。

1990年8月にイラクのサダム・フセイン大統領は、クウェートに侵攻しました。
大統領の言い分は、「うちの店先で大安売りなんかするもんだから、うちの物が全然売れなくなった、だからやったんだ」でした。
大安売りしていたのは、もちろん石油で、イラクの生命線でした。

国連は直ちにイラクに撤退勧告を行い、経済的な制裁に踏み切りました。
イラクのかたくなな対応に、ついにアメリカ・ブッシュ大統領は多国籍軍を編成して1991年1月に攻撃を始めます。 これは湾岸戦争と呼ばれました。
この時の首相は海部俊樹で、多国籍軍への自衛隊派遣が、海外での武力行使を禁じる憲法にそぐわないのではないかと悩みました。
せいぜい、青年海外協力隊でも派遣するのがいいのではないかと思い至りました。
当時、自民党幹事長の小沢一郎は、多国籍軍に参加しても、戦うのではなく、野戦病院での  医療活動くらいはできるのではないかと持論を語りました。
結局、人的支援ではなく、お金で解決する形に決めた訳です。
その時、提供した資金は1兆1100億円で、国民一人当たりの負担1万円という大盤振る舞いでした。
命の次に大事なお金を出して感謝されるかと思いきや、助けて貰ったクウェートは、多国籍軍に参加した国々に向けて感謝の広告をワシントンポスト紙に掲載しましたが、そこには日本への感謝は表わされていなかったのです。
ブーツ・オン・ザ・グラウンド・地上に軍靴で立てと、生身の人間が助けてくれることに価値があるとされ、日本の男子たちは、少なからずこの言葉に恥じ入ました。
その後、1992年には法解釈をやりくりして、国連平和維持活動法(PKO法)を成立させて、ペルシャ湾では海上自衛隊を派遣して、掃海艇で機雷除去などの後方活動に参加しました。
その後、イラクに続いて、カンボジア内戦、アフガニスタン攻撃など自衛隊派遣が続きました。

2001年9月11日、ブッシュ大統領、息子の時代にあのニューヨーク・ツインタワーを初めとするアメリカの中枢を民間航空機で破壊するという前代未聞のテロ事件が起きました。
もうこうなると、理由はなんでも構わなくなり、大量破壊兵器を保有している狂犬として有志連合と呼ばれた多国籍軍は、イラク・サダム・フセイン政権の壊滅を目的としたイラク戦争を始めました。
この時も、ショウ・ザ・フラッグ(仲間であることを旗で示せ)とブーツ・オン・ザ・グラウンドという言葉は便利に使われ、日本は、同盟国に遅れをとってはならないという焦りの空気に
包まれたのです。
この時は、小泉政権で2004年に非戦闘地域に限り自衛隊を派遣するとした「イラク特別措置法」を成立させて人道支援のためにイラクに派兵しました。

さて、本題に入りましょう。
日本政府も日本人も、国際社会の一員として、無法者が暴れ出した時、皆んなで取り押さえる事の重要性はわかっています。しかし、戦後、平和憲法を守って、自衛隊が誰一人外国人に攻撃したことがないという事実を重く受け止めるとして、今後本当にこのまま続けてゆけるのだろうか、国際的に、またアメリカに対して、正当性を主張できるだろうかという不安は常に付きまといます。

先日、たまたまテレビで「ハクソーリッジ」というアメリカ映画を観ました。
第二次世界大戦で日本本土を本格的に攻撃するために、沖縄を陥落させる目的で侵攻した時の話でした。
主人公のデズモンドは、バージニア州の田舎育ちの青年で、敬虔なキリスト教徒であったことから「汝、殺すなかれ」の教えには忠実でした。

当時の青年たちは、日本の真珠湾攻撃に義憤を感じ、志願兵として戦場に行くことが当たり前だったのです。
デズモンドも志願し、野戦病院で傷病兵の看護することで奉仕することを希望しました。
ところが、思いは叶わず、通常部隊に配属されてしまいました。
軍事訓練を受けますが、武器には一切手を触れず、人を殺す一切の訓練を拒否しました。
戦わない兵隊など受け入れられるべくもなく、問題は大きくなり、軍法会議裁判を受けるまでになりました。結局、デズモンドの願いは受け入れられ、衛生兵として1945年 沖縄攻略戦に従軍できました。
沖縄浦添市にある前田高地は150メートルもの断崖絶壁で、アメリカ兵はハクソーリッジ「のこぎりの刃ような崖」と呼びました。
アメリカ兵はこの崖を登り、敵の日本兵と戦いました。
戦艦からは鉄の暴風と呼ばれた激しい砲撃しながら、壮絶な白兵戦が繰り広げられました。

アメリカ軍は苦しい戦闘の後、崖を降りて撤退しますが、デズモンドは一人崖の上に残り、命が残っている兵隊を探して走り回り、ロープを使って崖から一人づつ吊り下げ救出していきました。
日本兵に銃撃されても、反撃せず、ただ逃げ回り、死体に隠れながら、次から次へと負傷兵をロープで吊り降ろす、その数75人もの偉業でした。その中には、日本兵も二人いて、もうデズモンドにとって敵味方ではなく、傷ついた人間への一途な思いだけだったのです。
劇中、デズモンドは「信念を曲げたら生きて行けない」と語るシーンがありました。

信念の強さに感動を覚え、さらに驚いたのはエンドロールで、これは絵空事ではなく、真実だったと示されたことでした。
その後、デズモンドは帰国して、トルーマン大統領から名誉勲章が授与されました。

戦わないことを決意して軍に貢献することも勲章に値するという事実を知りました。

この事実は日本の平和憲法の下で戦闘ではない貢献活動をする自衛隊に対しても、日本国の戦わないという信念に対しても、敬意は示されないだろうか。
「Show the flag, Boots on the ground」などの戯れ言は引っ込めて欲しいところです。

2021年6月11日
日本オーガニックコットン流通機構
オーガニックコットンアドバイザー 宮嵜 道男

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